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2010年11月10日水曜日

(雑) 努力家で思いやりがある、って?

奈良2日目。

「大学医学部が、面接や内申書を今以上に重視するなど、医師としての適性にも目を向けて生徒を選んでいただきたいと、切に願う」

という意見が、新聞(1日800万部弱発行されているもの)に掲載されていました(旅先で暇なので読んでみたのです)。しかもその投稿は「教育者」からです。
他にも自分の意見を新聞に投稿してくる読者はたくさんいる筈、ですが、その何倍だか分からない競争倍率を勝ち残り、このような主張が掲載されるのです。このような意見が紙面に載るということは、多分に新聞製作者の意図が含まれているだろうこと、そして恐らく新聞の紙面を作る者も、上記意見に賛同するところがあるだろうこと、が想像できます。

記事によると、この意見の根底にあるのは、
「ペーパー試験の成績があと一歩足りなくて、医学部に合格できない。努力家で他人思いの性格。だからそのあたりの比重をもう少し重くして合否判定を・・・」
ということのようです。

私が危惧するのは、上記投稿者が
「医師としての適性」という言葉に、「ペーパー試験に合格できる能力」が含まれていないと考えているのではないか
という点です。

私は、「ペーパー試験以上に公平な試験はない」と思っています。それは私が医学部の入学試験に合格したことがあるからいうのではありません。非常に短時間のうちに、多くの受験生の努力の量と能力を計測することができるから、これまで長いこと使われてきたのだと思っています。それ以上に素晴らしく、多くの人が認めるような方法が考案されなかったからこれだけの歴史があるのだと思います。
努力家と言うのであれば、現在の入学試験はペーパー試験重視で合否判定が行われているのですから、それに対応した適切な対策をとり、彼/彼女の優れた適性であるところの「努力」を思う存分発揮すればいいのです。ペーパー試験は適切な努力を適切に行うことで評価されます。「努力家であること」が優れた素質で、そこを十分評価されずに医学部入学試験に失敗していると思うのであれば、教育者ならば、それを医学部合格レベルに引き上げるべきではないでしょうか。
そして、上記意見には看過できない重大な前提があります。「努力家で他人思いの私の教え子」を差し置いて医学部に合格している受験生たちは「目の前の教え子より他人思いでない」と、上記意見表明者が考えていることです。そうでなければ「入学試験の制度が変わることで、努力家で他人思いの私の生徒」が合格できるのでは、と考える筈はありません。「努力家で他人思いの性質をもつ私の教え子」は、「他人を思いやる性質の劣ったその他の受験生」に負けて試験に落ちた、という仮定があると思わざるをえません。
しかし、いったい誰が

・医学部合格者は思いやりに欠けること
・努力家で他人思いで心優しいが、受験に失敗した教え子」が「合格した受験生」より他人思いであること

を証明し、そのように採点できるのでしょうか。上記意見を述べる者が、「私が病院にかかると、私の訴えを聴いてくれない医師があまりにも多い」から、そう思うのでしょうか。

「他人思い」という性質を入学試験の面接官や高校教師が判断することが、客観的評価となりうるでしょうか。または、採点者たちが「この人は思いやりがある。医師に向いている」と判断するに足るだけの人間観察能力や、人格を備えているか、をどうやって誰が判定するのでしょうか。

私は思いやりを否定するつもりは全くありません。他人を思いやることができるのは医師という仕事をするにあたって重要な力だと思っています。

しかし、思いやりが大事、なんていうことは、サービス業に携わる全ての人に当て嵌まることです。ホテルのフロントマンは、宿泊者が何を求めているか慮る必要があるし、美容師はどのように髪を整えれば客が喜ぶか慮る必要があります。むしろ病める患者を相手にする医師より、体が病気でない健康な人たち相手に仕事をしている方々の方が大変だと考えられます。彼らは自分たちが行っているサービスに、顧客が満足しなければそれで終わり。次は利用してもらえません。医師の仕事は患者の病態もあるし、満足のいく回復が得られなくても、それは病気が進行していました、現在の医療レベルではこれしかできません等で落ち着くべきところに落ち着く可能性があるからです。(だからといって治療を適当にやるとか、そういうことを言っているのではありません。誤解しないで下さい。改めて書くまでもありませんが、人は死ぬものです)

思いやりだけで、目の前でショック状態に陥っている患者は救えません。
思いやりだけで、正確な薬剤投与量は計算できません。
思いやりだけで、鑑別診断を思い描き、より正しい診断にたどり着くことは出来ません。

それが社会的に許されないと言うことは、昨今の医療訴訟問題が十分示しているところです。「想定されることに対して、少なくともそれが疑われる時点で最良の行為を行わないと、後から罰せられることがいくらでもあり得る」という事実に、きちんと真正面から向き合っていれば分かることです。ましてや新聞に投稿する人は、日々様々な医療事故問題を紙面で読んでいる筈です。
私が高校教師や予備校講師であれば、能力が足りない学生に対して「かわいそう、残念だったね。もっとあなたの人間性が評価されれば医学部に入れただろうに」とは考えません。その得体の知れない「他人を思いやる人間性」とやらが評価され、医学部に合格し医師になっても、診断や治療を十分に行うだけの論理的能力がちょっと劣っていたことで、医師免許を剥奪されるかもしれない人間を作り出したくないからです。そしてその後ろには、その医師に当たってしまった不幸な患者が存在してしまうのです。

より物事を単純化すれば「ちょっと冷たい感じがするけど、診断や治療が的確で、”いわゆる”治してくれる」医師と「人柄は優しいけれど、診断が違ってました。だから治療もちょっと間違ってます。お陰で手遅れになりました」という医師では、どちらがより患者さんや社会に選ばれるでしょうか。
多くの国民が前者を選ぶであろう事は想像に難くありません。知識の暗記や論理的能力は、間違いなく、臨床医として必要不可欠な能力ですし、それが劣っていて落ち度があれば、医師免許を剥奪されるのです。

ましてや、医師は臨床だけやっていればというわけではありません。今日の医療の発展は、研究に尽力した素晴らしい数多の医師たちによるところが非常に大きいのです。論理的能力がなれれば研究はできません。

思いやりは医学部合格への前提でしょう。そして「彼/彼女が思いやりの人物か」について責任を持って意見できるのは、その受験生を育ててきた親くらいではないでしょうか。

入学試験の方法をよりよいものにしたい、という意見は非常に大事です。ですが、その前提となる考えが、あまりに情緒的すぎる気がします。私が知る限りにおいて、ともに働く医師たちの中に「あまりに思いやりに欠ける」と思えるような人は、街の中で見かけるその他多くの人々よりも決して多くはないと思います。
というような意見をいう資格があるほど、私が「他人におもいやりがあるかどうかを判断し、それを口に出す資格があるかどうか」は、この文章を読むだけではわからないでしょ?
だから冒頭の意見に「そうだ、そうだ、全くその通り」と納得いたしかねるのです。私が危惧するのは、冒頭の意見を新聞で読んで「全くその通り」だと暗に同調する人が800万部/日の新聞の読者の何%かに出てくるだろう事、またこのような意見の掲載にゴーサインを出すマスメディア関係者がいるということです。(掲載目的が、私のように反論する人間が出てくるのを誘っているのであるとすれば、してやったりなのでしょうけれど)

少なくとも医師の私は、自分が患者として受診する場合には、より正しく病態を突き止めようとする、論理的思考をもつ医師に見てもらいたいと考えます。

まぁペーパー試験は論理的思考を担保していないかもしれませんが・・・。