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2011年5月10日火曜日

(雑) これまた、ただの批判


来週の学会に備えた予演会が昨日終了。
自分が想定していた質問と、違った論点からの疑問が出てきて非常にためになった。
発表時間7分の制限時間に対して8分20秒くらいかかってしまった。本番までブラッシュアップする必要あり。

***
放射線にしても食中毒にしても、様々な人たちが批判を繰り返している。政府が悪い、電力会社が悪い、焼肉屋が悪い、と。
そうなのかもしれない。

しかし、被害の当事者、もしくは当事者に近い人でなければ、加害者(とメディアによって想定されている存在)に、安易な批判ばかり繰り返すべきではない気がする。

それは「このドラマはつまらない、この映画はつまらない、このピッチャーはだめだ」と一緒で、単なるテレビやコンピュータ、新聞の向こう側にある、様々な娯楽を批判するのと変わらない。
自分の影響の範囲外で起こっている事柄に対して、大して調べもせずに、メディアに同調して批判ばかりするのは危険である。そのような批判を公然と繰り返す人々は、自分の家族が当事者となった電力会社に勤めていたり、焼肉屋でアルバイトをしていたり。そういう可能性を考えたりはしないのだろうか。もし、そういう状態だったとしてもなお、批判します!という人ならば、私にはもうどうしようもないけれど、そうでなければ暇つぶしの娯楽の出来栄えの悪さに悪口を言っているのと、殆ど変わりない(しかも、一見正論のようにきこえるところが始末に悪い)

一連の報道は、私に院内感染発生時の帝京大学病院の一件を思い起こさせる。原発と焼肉屋と院内感染に、同列に論ずるべきでない点が多々あるのは理解しているが、「加害者(とメディアが想定する)を、袋叩きにする」という構図において、なんら変わることがない。システムに問題がある際に、当事者をリンチにしても、何も変わらないのは、これまでの様々な事件や事故から、分かっていることである。
同様の被害者を出さないようにするという目的から、事案を検証するのであれば、その結果が出るまでは、余談を交えずに淡々と事実だけを報道するべきである。
とはいえ、そこに「勧善懲悪」の分かりやすい物語がないと、衆人の注目を集めることが出来ないので、何らかの「多くの人が与しやすい物語―正義と悪が分かりやすい対立構造にあり、特定の悪人を正義の味方が倒す」を作って、テレビやコンピュータの前にお膳立てされるのである。

話は変わるが、先月、堀江貴文氏に実刑判決が出されたとき。
街頭インタビューで私と同年代くらいだろう女性が
(実刑判決は)当然だと思います。」
と全く躊躇することなく、答えていたのには唖然とした。

恐らく彼女は「彼がどのような罪を犯したのか」
について問われたら、答えられなかっただろう(もしかしたら被害者に近い関係者という可能性もあるが)
当時メディアが大騒ぎで逮捕の報道をしていたことを思い出し、その空気を根拠に
「実刑判決当然だ」
といっているような気がしてならなかった。
恐らく自信満々に「実刑は当然だ」と言える人は、自分が逆の立場に立ったときにも、数多の罵詈雑言に耐えうる強い心をもっているのだろう。もっともそのような発現を恣意的に取り上げるメディアもどのような見識をもっているのか、私にはよくわからない。

被害に遭われた方々、またその近しい方々には心よりお見舞い申し上げるが、誰かが掴んだ2次情報しか情報のリソースがないような状態で、悪者叩きするのも、メディアを丸呑みにして信じるのも、当事者から遠い立場にいる場合には程ほどにしたほうがよいと私は思う。と、メディアを悪し様に言っている私の発言自体も信じないほうがよい。

「周りが皆悪いと言っているから悪いに違いない」という思考回路から発せられた批判に直面すると、その発言主の脳細胞が死んでいるとしか、私には思えないのである。