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2011年6月6日月曜日

(本) 喜婚男と避婚男 - ツノダ姉妹

タイトルが面白いので読んでみた。

著者らの主張によると以下のように概ね定義されるらしい。
・喜婚男:妻への愛を声高に宣言し、オウチでの家事や育児を全くいとわず、仕事よりオウチに価値観を置く男性
・避婚男:結婚「できない」ではなく結婚「しない」男性(1980年代-2000年頃の社会進出してきた女性と同じような理由による、、、つまり・・・料理や家事はできるし、趣味を共有できる仲間もいる。敢えて結婚して、他人を家の中に入れようと思わない男性。これまで割とオタク文化に染まってきたような男性も含まれる)

著者らの分類による女の時代(男女雇用機会均等法ができた1986年。その後、ブランド物を買い漁りに海外旅行に繰り出し、ナイトライフを男性のように楽しむことができるようになった強欲の塊のような時代。結婚?まだいいわ、と多くの女性が言っていた時代)は過ぎ去り、今は男の時代になっているという。「仕事は俺がやらなくても替わりがいる、けど夫、父親は俺以外には代替不可能だ」とばかりにイクメンはオウチ仕事に精を出し、社会情勢もそれを応援する・・・そんな世の中らしい、今は。ふぅん。

所謂、バブルの空気を20代頃にたっぷり吸い込んで生きてきた著者らの筆致にしては、随分と謙虚で抑制のきいた文章のように感じられた。ここ20-30年の「メディアの中で語られそうな世の一般庶民の時代の趨勢」が概説されており、「ふーん、私がこれまで生きてきた時代ってそんな風に語ることもできるんだ」と妙に感心して読ませてもらった。
が。
メディアどっぷりな物の書き方で、果たしてここに描かれているような人生を送っている人、送っていた人、これから送る人、が本当のところ世の中にどれくらいいるのだろう。
著者らが本書の後半で危惧していたのが「イクメン燃え尽き症候群」ともいうべき、オウチ事も仕事も完ぺきにやろうとして灰になってしまう男性の増加。おそらく勝間和代氏のようになろうとして燃え尽きていった女性たちから連想しての発言なのだろうが、女性が「あれもこれも」やろうとするのに対して、男性は「あれかこれか」の傾向が強いような気がする。「イクメン燃え尽き症候群」は杞憂ではなかろうか。
それにオウチ事をきちんとやりたがるような超合理的マインドの持ち主ならば、会社などでの仕事もきちんとこなす「デキる」ビジネスマンである可能性が高い気がするのは私だけだろうか。お気に入りの家電で掃除や料理はしっかり。でも職場では「まぁ、俺の替わりなんていくらでもいるさ、怒られない程度にやっとくか、あぁめんどくさ」という男は、むしろ希少な存在なのでは。
おそらくこの著書は、著者らの仕事である「マーケティングに役立つ名刺代わり」のようなものなのだろうから、読書対象者は、著者らが仕事相手にしているであろう「イクメン相手に物を売って潜在的な消費を掘って掘って掘り起こしたい企業の方々」なのだろう。

全体を通しては、私には「ふぅん、そうなんだ。そんなに喜婚男、イクメンとやらが増えているのか」という感想しか出てきませんでした。料理はほぼ毎日し、週末は風呂掃除や掃除機かけなどの家事もするし、近所のスーパーで値札を見て「今日は小松菜が安い!」と、小松菜と目が会った瞬間に判断できる程度には生活人化されている私だが、だからといって喜婚男かって言われても、なぁ。そんなに単純じゃないでしょ。だいたい家事なんて男でも女でも誰でもするんじゃないのか…(子育てに関しては子供がいないからわからないが)。私は1人でやる趣味は大好きだが、「掃除機はダイソンじゃなくて~~~がいい、それは~~の機能が~~だからさ~」とか他人からしてみたら「どうでもいいじゃん」で一蹴されるようなゴタクを並べ立てる男はno thank youである。

段々話が逸れてきた。

独身女性が本書を読んで結婚相手を探す戦略をたてる(というか最近の男性の一般的傾向を学ぶ?)・・・というような使い方は難しいのではないかと、私には感じられました。が、ここで描かれている男性像は「マクロの視点」からは大きく実態と逸脱していないような気がしますから(私の周囲にはあんまりいないってだけで)興味がある方は読んでみてもよいのではないでしょうか。

私的には結婚観は以下を採用していますが。2010年8月22日にも引用したが、ここに再掲させていただく。

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一緒に暮らす他者と、あなたは気持ちが通じないこともあるし、ことばが通じないこともあるし、相手のふるまいのひとつひとつが癇に障ることだってある。そして、こう思う。「この人が何を考えているのか、私には分らないし、この人も私が何を考えているのか、分っていない」それでオッケーなのである。結婚というのは「そのこと」を骨身にしみて経験するための儀礼なのである。(中略)自分を理解してくれる人間や共感できる人間と愉しく暮らすことを求めるなら、結婚をする必要はない。結婚はそのようなことのための制度ではない。そうではなくて、理解も共感もできなくても、なお人間は他者と共生できるということを教えるための制度なのである。(内田樹 ― 街場の現代思想 161頁)
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皆難しいこと考えすぎなんじゃないか。どこの誰だかわかんないような異性と結婚させられていた時代もあるんだしさ。と不遜にも私は思う。