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2011年8月10日水曜日

(本) 大震災の後で人生について語るということ - 橘玲

日当直明けに大学の医局に行ったら、「原稿料を振り込みました」旨の封筒を発見。とある商業誌の特集の一部を担当させていただいたのだが、その原稿料らしい。
単純に作成開始(ボスに「これ書いて」と仰せつかった日)から脱稿までの日にちで換算すると150円/日程度の報酬。つまり「1日1本ペットボトルあげるから、これで頑張って書きなさい」という程度である。学術的な価値は、報酬ゼロ円/日で血眼になって作られた論文の方が高い…ということは認識しているけれど、お金を頂けた上に、症例報告のような論文以外を執筆したのが、生まれて初めてだったので、非常に勉強になり、ちょっと嬉しかったのであった。

早くお金のもらえない論文を書きたい…と思えるのは、衣食住が維持される程度の収入があるからで、そういった環境と国に生きていられるのは幸せなことである。

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「大震災の後で人生について語るということ - 橘玲」
を読む。

「ヒトとしての物理的制約から、私たちの人的資本は一定年齢を超えるとゼロになり、それ以降は金融資本だけで生きていくことになります。」(p111)

という言葉は、数年前から私の頭の片隅をずぅぅぅぅぅぅっと占めてきた言葉であり、この(生きていれば)「未来に確実に来るだろう現実」に現時点からどのように対策をとったらよいのか。非常に難しい問題である。
非常に不謹慎だろうけど、やりたい勉強ややるべき仕事や守るべき家族などについて「あーでもないこーでもない」と没頭しているうちにぽっくり行く、のは、自分のことだけを考えるのならば、もしかすると理想的なことなのかもしれないが(私以外の人間にこの考えを当てはめようとは全く考えていないので悪しからず)、定年になり、いろんなことが片付いてきたときに、「なんで生きているんだろう」と哲学することすらできないほど衣食住に困る可能性を時折妄想してしまう。

麻酔科専門医になることや英語のレベルを向上させることは、定年までの私の人的資本の価値を向上させることであり(自分だけが満足する自己実現的な価値ではなく、他人から見て役に立つ、社会的存在としての自分の価値)、自分が今所属している場所でないところに行きたいときに切符となるような重要なものなのだけれど。上記の本を読むと、日本円はいつまで大丈夫なのか、とか、税金の無駄遣いに怒っていたり円の先行きを心配しているせに、資産の大部分が円だったりする自分の状況にとても不安を覚える。

私の生まれた年の男性平均寿命は73.35歳なので、定年を無事に終えられれば人生の9割が終了したことになるし、私が定年を迎えるであろう30余年後は、高齢者率が40%程度。必然的に「働ける者は死ぬまで働きましょう」とお上からありがた~いお達しが出るだろう。そもそも定年を迎えるころには日本円にどのような価値があるのだろうか。医療も市場開放され、より安い人件費で働いてくれる優秀な外国人麻酔科医たちに仕事を奪われるのだろうか。それまで、私は麻酔科医として仕事をしているのだろうか。年金制度や国民皆保険制度はとっくに破綻しているだろう。社会保障費は間違いなく減少し、自分の身は自分で守らなければ本当に餓死するだろう。

今の私的危険対策は、経済のことを自分よりも詳しく知っているであろう本書の著者のような方々の本を読んで暗澹たる気持ちになりながらも、できる対策を日々ちょっとずつ行い、人的資本の価値を高めるために常にちょっとずつ冒険して胃が痛くなりながらもコンフォートゾーン(自分の心地よいと感じられる領域)を広げ続けて、「ここまでやれば将来は安泰だろう」と決して思わず、軌道修正を死ぬまで続けることだと思う。それが成功するかどうかは30年くらい経てば分かるだろう。経たないとわからないだろう。
いろいろとためになる一冊でした。