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2012年7月28日土曜日

(本) 街場の文体論 - 内田樹 (2012年、ミシマ社) ~ 今年1番熱心に読んだ1冊です

氏の著作を読むのは久しぶりです。「最終講義」以来です。本書は地味な装丁ながら、いやむしろその地味な装丁故に本屋で目に止まり、買って読むことにしました。麻酔の日当直にいく90分の電車の中と、予定手術終了後緊急手術麻酔の連絡でPHSで呼ばれる前までと、緊急手術後に少し転寝(うたたね)した後と、家に帰る電車の中と、お昼ご飯を食べて研究室に細胞の培地交換に行く前迄で読み終えました。この間、他の本を全く読みませんでした。最近の私にはとても珍しいことです。ある本をどのくらいの時間をかけて、そしてどこで読んだかという情報は、人さまにとってはどうでもよいことだと想像しますが、私はこの本に出会えたことにとても感謝しているのでこのように記します。

本書は「言葉にとって愛とは何か?」と帯に書かれている通り、それを様々な形にして伝えようとしている本です。全14講の講義録に加筆したものですが、最後の第14講。私は感動してしまいました。

私は氏の著作を読むのは本書で27冊目です。本書にはこれまでの著作で語られた言葉もそれなりにあります。ですがそれらも「あぁ、またおんなじこと言ってるよ」と食傷気味な感触を読者に覚えさせるのではなく、なぜか本書の中では有機的に機能している気がします。それは恐らく、本書におさめられる元となった講義が、本当に氏が、魂を震わせて、目の前の学生たちに伝えたかったことだったからなのではないか。そう思います。
以下、後々自分が読みたい文章なのでここに引用させていただきます。

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自分が何を知らないか、何ができないのかを正確に言語化し、自分に欠けている知識や技能や情報を有している人を探し出して、その人から教えを受ける。「知りません。教えてください。お願いします」。学びという営みを構成しているのは、ぎりぎりまで削ぎ落として言えば、この三つのセンテンスに集約されます。自分の無能の自覚、「メンター」を探り当てる力、「メンター」を「教える気」にさせる礼儀正しさ。その三つが整っていれば、人間は成長できる。一つでも欠けていれば、成長できない。社会的上昇も同じです。学ぶ機会をシステマティックに退ける人に階層上昇のチャンスは訪れません。「オレは知っている」「オレはできる」「オレは誰にもものを頼まない」「オレは誰にも頭を下げない」ということを生き方の規律にしている人はそうすることによって階層下位に自分を呪縛しているのです。階層社会の怖いところは、そういう「学ばない」構えが階層下位に向けてのみ選択的に勧奨されていることです。(p128)

この言葉づかいはそれ自体が階層形式的に機能しているんです。「これむずかしくて、意味わからない」という読者は「パーティに呼ばれていない」ということなんです。あなたがたは自分たちの仲間うちのパーティで楽しみたまえ。ここは君の来るところじゃないよ、って。バルトにしてもフーコーにしてもデリダにしてもラカンにしても、「なんで皆さんはこんなにむずかしく書くんですか?」と訊かれたら、さぞびっくりすると思いますよ。「あれがむずかしいと思うなら、君は読者に想定されていないということなんだから、読まなくていいよ」って。
 そう言われると反論のしようがない。でも、そう言われると、僕は腹が立つわけですよ。なんだよ、って。こっちは一億三〇〇〇万の同胞のためにできるだけ質の高い学術情報をお届けしようと必死になっている「輸入業者」なんですからね。(p158-9)

額縁を見落とした人は世界をまるごと見誤る可能性があるということです。(p163)

今の日本では出産も育児も、親の社会的活動に大きな障りとなります。育児負担は経済的にも重いし、就業形態も制約されるし、自由時間もなくなる。独身者との競争では、あきらかなハンディを背負う。
出産育児はさまざまな発見をもたらし、親の人間的成熟に資する「愉快な経験」であるということをアナウンスする人はきわめて少数派です。とりあえず政府は言わない。出産育児を行政が支援するというのは、「さぞお困りでしょう」ということが前提になっている。子育てをしている人たちには「たいへん不愉快なことを受忍していただいている」ということが前提になっている。
幼児虐待の悲惨な事例がしばしば報道されますけど、あれだけ子どもを残酷に扱えるのは、加害者たちが異常に暴力的であったからというよりはむしろ、「子どもというのは親にとって『不愉快なもの』である」という考えがこの親たちに刷り込まれていたからだと思います。(p188) 

僕たちにできるのは、せいぜい自分の思考も感覚も、すべて一種の民族誌的偏見としてかたちづくられているという「病識」を持つことだけです。それしかできない。でも、それができたら上等だと僕は思います。(p259)

そのために有効な方法が一つ知られています。それは母語の古典を浴びるように読むということです。古代から現代に至るすべての時代の、「母語で書かれた傑作」と評価された作品を、片っ端から、浴びるように読む。身体化するというのは理屈じゃありません。ただ、浴びるように読むだけです。それが自分の肉体に食い込んでくるまで読む。
身体化した定型は強い。危険だけれど、強い。というのは、母語の正則的な統辞法や修辞法や韻律の美しさや論理の鮮やかさを深く十分に内面化できた人にはどのような破格も許されるからです。(p262)

受験勉強の勝者になるということを知的達成のモデルに擬した人は、いつのまにか、自分以外のすべての人ができるだけ愚鈍かつ怠惰であることを無意識のうちに願うようになる。学会での論争を見ていると、それが集団的な知のレベルを上げるためになされているのか、目の前にいる人の知性の活動を停滞させるためになされているのか、わからなくなるときがあります。論争相手を怒鳴りつけたり、脅したり、冷笑したりする人は、彼らを含む集団の集合的な知性を高めることをほんとうにめざしているのか。(p270-1)

フランス語のテクストが読めて訳せるというのは、メカに強いとか、料理がうまいとか、音感がいいとか、そういう種類の能力と同じものだと思います。だから、その能力を備えていない人の役にたちたいと思った。料理の上手な人が、美味しいご飯を作ってさしだすことを誰も「啓蒙」とは言わないでしょう。(p274)

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比較的重症な状態にある患者さんの麻酔を担当しました。患者さんの家族からしてみたら外科医・麻酔科医から怖い話を唐突にされるわけです。昨日まで元気だった家族が、なぜか今日は「死ぬかもしれません」(と私たち医師はオブラートに包んで「命にかかわることがあります」とかなんとか言うわけですが)という状態になっている。これは何だか悪い夢なんじゃないか。なんでこんな目にあわないといけないんだろう。きっともっともっと負の感情で押しつぶされそうになっているはずです。患者さんや患者さんの家族からしてみたら。
そして突然死ぬかもしれませんと冷酷なことを告げに来る医療者に対して「先生方にお任せいたします」と言ってくださるわけです。きっとその心のなかには「本当に目の前のこの人間を信頼していいんだろうか」とか「私が手術や麻酔ができるなら、こんな目の前の何処の馬の骨ともわからない奴に頼むもんか」とかの感情が渦巻いているわけです。
そんな方々を目の前にして私ができることは、自分の良心にしたがって、私が最善と思えることを精一杯やることだけです。そういうふうにしか、私は私のもっている、私が学んできたものを社会に還元できないのです。
でも、きっと恐らく、私の今現在の限られた経験と想像力で書きますが、皆さんそうやって自分の得意とするもので、自分の置かれた場所で生きているはずです。私も自分が得てきたもの、これから得るだろうもの(それは今はわからないですが)、そういったもので社会のお役に立てればいいと思います。
と書くと綺麗事いってんじゃねぇよ、って怒られそうですが、でもやっぱり自分がそうするのが気持ち良いからそうやるわけです。きっと。

なんてことを、おそらく著者の意図しないところで勝手に思わせて下さった1冊でした。感謝です。

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